長い口上

カンレキからのトランスジェンダー

何年も前から「その流れ」はあって、何十年も前に「その芽」はあったのかもしれません。出生前に男か女かわからなかった時代、母のお腹をやさしく蹴った胎児の私には兄がいて、両親は「今度は女の子」と確信し、またそう願った。でも私をとりあげた産婆さんが「黒ちんちんだから元気な子だね」と言いました。黒ちんちんは“ジェンダーの指揮棒”となって私を悩ませるとは思いませんでした。そもそも男も女も染色体の小さないたずら。ご存知かしら、受精のときはだれもが女で、男性ホルモンという秘油が卵にそそがれて男がつくられる。女がもとで男ができている。男は女を内包しつつ男を演じなければならない。それが宿命。
だから男は罪深い生き者になる。女への憧れは罪のはじまりで、私は美しい女に憧れました。文学上の美女やハリウッド女優、クラスの目のでっかい女の子が好きだった。妄想では成就するのに現実では失敗ばかり。恋の破片が心の底に溜まっていくばかり。満たされない欲望とコンプレックスにあえいで、私は自分探しの旅に出た。
旅で見つけたものは「自分沼」でした。自分で作って自分がはまる「自作自演の」沼。「私ってだれ?」「何のために生きてる?」問いかけても沼は泡も浮かばない。自分沼には“孤独深度計”があり、深いほど孤独を示す針は底辺へ向かった。沼は旅先だけでなく、学校の教室にあった。実家の居間にもあった。親や友人や家族に心をひらけない自分が沼淵をつかもうともがいていた。結婚して、不倫して、離婚しても、なお私は自分沼にいた。
愛に欠乏した私は、「愛」という字の原意を知る。それは「過去をふりかえって心が動けなくなる」という意味。自分だった。

愛という文字は「心がいっぱいになる」と書く
相手への思いでなく
自分の思いばかりで
満たしてきただろう
このばかものめ

以上が背景、さて本論。

2020年の夏、カンレキになりました。白髪が目立ちだした頭髪ケアをどうしよう。答えはセルフ坊主カット。五分刈りが三分刈りとなり、一分以下になりました。すると、ほかの体毛が気になった。そこでスネ毛を剃り、脇毛もなくした。この毛の処理は序章だった。12月16日、ウイルス騒動で運動不足になった下腹を見て、ふと「へこませよう」と決めた。腹筋運動を毎日3セット、二ヶ月後に成果が出た。へこんだ腹にはうっすらと筋肉がついた。背筋運動も追加してさらに一ヶ月後、鏡に映した自分の腹を見て思った。

「自分の体が好き」

生まれて初めてもてた自己肯定感。痩せた自分を連れて古着店に行った。男物と女物が無造作にまじったジーンズの陳列。そのなかから股上の浅い女物ジーンズを手にした。試着室に入ると、履けた。思わず両手を腰にあててポーズ。言葉にならないほどうれしかった。
思えば十代にバングルやペンダントをしたし、こっそりアイライナーを引いたことも一、二度あった。灰色のスーツ時代にもビジネスバッグをトートバッグに変えたし、財布やマフラーや傘など女物を好んだ。けれどもしょせんそこまで。試着室の鏡に映った私は、沼から一歩陸にあがった。うれしくてスリムやバギージーンズを無駄に買った。ふたつ気づきがあった。

「自分は、女物を着るとすごく心が安らぐ」

しかし待て、私には仕事がある。そこで紺色の中性的なジャケットを求めた。シャツは襟無しのスタンドカラーでいこう。パンツはどうする?安易に男物に妥協したくない。ローライズでも股下79cmを確保したい。手足が長く高身長ゆえの苦労。女らしい低ヒールの26cmの靴なんてあるのか?高身長女の苦労がわかってきた。そのときハタと気づいた。

「男物が着れなくなった自分がいる…」

性という文字は「心が生きる」と書く
社会の常識に
自分の性をおしこんで
じっとしていただろう
この腰抜けめ

女に向かうと、これまでにない解放感、かつてない落ち着き、生きていく希望に包まれた。
春から夏にかけて私を押した音楽と本がある。音楽はアメリカのカントリーシンガー、ブランディ•カーライル。初めて聴いた1曲で落ちた。ブランディはきれいだが、どこか「男が棲む」と直感した。彼女は女が好きで、十代半ばでカミングアウト、同性愛も中絶も許さないキリスト教会からつまはじきにされた。彼女のなかでマイノリティである鬱屈やプライドが歌に向かって昇華されていた。
作家赤坂真理さんの本『愛と性と存在のはなし』には、映画『ボヘミアンラプソディ』のフレディ•マーキュリーの「同性愛への覚醒」を論じる部分がある。クイーンのボーカル、フレディは同性愛の男役で、かれの楽曲は多くのひとを解き放ったが、それはかれ自身、自分の性を解き放ったからでもある。赤坂さんは自分のなかにも「男がいる」と知り、悩んでインドまで行った。悩まなくていいじゃない。男になればいいのに。
決定打となったのは「女性装」をする東大教授安富歩さんの本『ありのままの私』。安富教授は家父長的な家や男性社会を嫌い、その文化史研究を専門にした。「自分は男性のフリをしている」「女装はナルシシズムで、女性装はほんとうの自分を表現すること」という。まさにそれ!女性装はスリルを楽しむためにするのではなく、自分が落ち着くからそうしたい。

「自分はトランスジェンダーだったのか…」

安富さんは自分を「トランスジェンダーでレズビアン」と表現する。男性から女性へ転換するが恋愛対象は女性のまま。なんて都合がいいのか!(笑)だがそこで愛には「無数の組み合わせ」があることに気づく。アメリカの作家ケイト•バーンステインは男から女になり、かれ(だか彼女だか)の恋人は女だったが男になった。ケイト自身は「ジェンダーフリー」を自称する。
そもそもLGBTQとは、マジョリティ(性差に一致感を持つひと)からマイノリティ(持てないひと)を見たとき、かれらを理解しやすくするための分類にすぎない。現実には愛も性もいろいろ、誰もがスペクトラムな存在である。100%男も100%女もいない。

「女の性はありのままの自分だった」

そんなときあなたはひとつの映画を教えてくれた。『リリーのすべて』は1920年代のデンマークとドイツを舞台にした「世界で初めて性転換手術をした男の実話」。夫婦共に画家のアンドレアス(映画ではアイナー)はゲルダの求めに応じて、女物の靴下を履いてモデルになった。その時、自分の中の女性がもたげてきた。繰り返すが私はジーンズよ。それからアイナーは女になる道を選んだ。映画のアイナーも、映画の原作本(『Man into Woman』)にある写真のアンドレアスも美人なの。そこで私は揺らいだ。

「私はどんなトランスジェンダーになるのか?」

美という文字は「大きな大切なもの」と書く
老いとあらがい
男の形とあらがい
女を夢見るおまえ
このばけものめ

「美」の文字の上は「大切なもの」という意味で、下は「大」がつく。私にとって大切なことはなに?トランスジェンダー世界では反対性になりきることを「パス(pass)」という。「リード(read)」は読まれるという意味。私はなりきりたい。風景になじみたい。
でも男は女ではない。体格も骨格も変えられない。そこでmtf(男が女になる)のシナリオがある。女装は初めの一歩、ヒゲ脱毛、女性ホルモン(エストロゲン)の投与、喉仏の整形、豊胸やSRS(性適合手術)へ。どこまでするかもそのひと次第。私の背中を押してくれたのは『総務部長はトランスジェンダー』でした。この本を読んで、電通子会社に勤める岡部鈴さんの女性化への努力に驚嘆。「1ミリでも女に近づくために何でもする」それだ!私もやろう!私カンレキですから、あと十年、七十歳まできれいでいたい。

「楽しい方へ」

服も化粧も多種多様多品種多ジャンルがある。品選びで色やデザインで迷ったら「楽しい方を選ぶ」。腹筋背筋運動はヨガになり、女らしい体づくりへ目的が変わった。顔筋トレーニングも日課になった。
ところで私には文を書くくらいしか能がないので、自分のこの変化を書いていこうと思い出した。LGBTQを研究するため、医学から社会学、実体験やエッセイまでいろいろ読み出した。性同一性障害という語は日本以外の世界から消えていることを知った。日本の性同一性障害のダークな歴史を知った。性同一障害という「診断書」にある偽善と形式主義も知った。法律と医療保険のからくりも知った。日本にはおよび腰の医療人ばかりなのも知った。国内外のパイオニア•トランスジェンダーも知った。「トランスジェンダー研究の切り口」はいくつかある。

性同一性(ジェンダー•アイデンティティ)=自分の性的自認は反対性である
性志向(セクシャル•オリエンテーション)=同性を好きか異性を好きか
性役割(ジェンダー•ロール)=社会の中で求められる性の振る舞い
性転換(トランス•セクシャリティ)=性を変えて生きていく
性転生(ジェンダー•シフト)=ありのままの自分を見つめて生きる

性同一性は性科学の問題であり、性志向は恋愛問題であり、性役割はたとえば「トイレ問題」など社会とジェンダーの問題であり、性転換はこれらすべてをひっくるめた問題解決への姿勢です。私は医療には少し詳しいが医学の専門家じゃないし、ジェンダーをジャーナリスティックに論じるタイプでもない。政治問題はトランスジェンダー議員上川あやさんに頑張ってほしいし、トランスジェンダーをおもしろく書ける才能をもつ能町みね子さんにも共感した。
では私が書けることはなに?興味があるのは、変わることで新たな生き方を得る“性転生(せいてんしょう)”です。私はトランスジェンダーとは「Queer(クイア=奇妙)なひと」ではなく、ありのままに生きようとする自分探しのひとであり、私は「女らしくなりたい」ので、美しさに目覚めたひとだと思うのです。

「トランスジェンダーは美しい自分探し」

でもどこまで何を変えられるのかしら?別の性になりたい、女らしく生きたいと思っても、どこまで変われるのかしら?「素」という文字があります。上の部分は、たばねた糸を下げる様子を表し、下の糸は糸を束ねた形を表す。糸を結んで染料を入れた鍋にいれると、下げた糸は染まるけれども、結び目は染まらず白いまま。性の分厚い壁を乗り越えるとは、結局はそういうことかもしれない。

素という文字は「染まらない糸」と書く
女性になりたい
美しくなりたい
なりきれるのか
この大ばかものめ

ばかは承知。私たちは「土星回帰(Saturn Return)」という生命の流転のなかにある。土星は、そのひとの誕生の瞬間に占めていた空の同じ場所に29.5年周期で戻ってくるという。つまり、だれもが30歳前後と60歳前後に、原点回帰のときを迎える。そういえば私は30歳の頃、女を求めて敗れた。還暦アラウンドの今、女を求めて女になる。なんという巡りあわせだろうか…

「私はカンレキからのトランスジェンダー」

自分の本性を直視して素直になった私は、今は見ず知らずのひとの幸不幸も受けとめられる。そのひとの気持ちに沿おうとできる。トランスジェンダーが抱く多幸感とは、ひとの悲しみや喜びを知ること、それに寄り添えることではないでしょうか。私にとってトランスジェンダーは「問題」ではなく、希望なのです。

以上、あらいざらい書きました。キモいと思われたら無視してください。憐れみをかけてやってください。しかし五十代でも六十代でもトランスジェンダーになれる。決心して、努力すればなれます。私はそれを実現したいし、このブログでそれを書いていきたい。「トランスジェンダーのあけぼの」を迎えたあなたへのひとおしになれば幸いです。
(2022年1月好日 りり〜郷)

カンレキからのトランスジェンダー
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