『リリーのすべて』に見る愛の秘密

夫のアイナーは妻のゲルダに請われて、女性物の靴下を履いた。それから女性物の靴を履いた。かれの足はその靴には大きくてはみだした。だがアイナーは女の靴下に包まれた自分の足を、踵まではいらない足を、じっと見た。感じたのは違和感ではなかった。言葉にし尽くせない喜びだった。

自分のなかに女がいた…

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2015年公開映画『リリーのすべて』(原題『The Danish Girl』)の最初のクライマックスシーンです。二人ともに画家である夫婦ですが、アイナーは売れっ子で、ゲルダは売れずに商業画を描いていた。その日もゲルダは女性モデルの商業画の仕事があったが、モデルが来れなくなってしまった。そこで「足を描かせてほしいの」と代役を夫に頼んだ。そのときアイナーのなかにいた別の性が呼び覚まされた。以来アイナーは、妻の下着を身につけ、貸し衣装で女装を愉しみ、自分のなかにいる女性を育てていく。

1920年代に世界初の性転向手術をしたデンマーク人の実話の映画化。映画のなかのアイナーも実在したリリーも、どちらも美しい。おヒゲはどう隠したんだろう?スネ毛は剃ったのかしら?と細部にも注目したけれど、忘れられないシーンは、アイナーが自分のペニスを太ももにはさんで隠して女装するところ。でっぱりを押し込めば女っぽく見える。女にはペニスはないし、かれもいらない。mtf(男から女になるひと=Female Transgender)なら共感できる感覚。

私はこのシーンが暗喩するものも感じた。それは女と男のちがい。男はペニスで突進し、女はヴァギナで受け身になる。男の愛と女の愛の本質的な違い。それもこの映画のテーマである。アイナーの女への変化をおもしろがったゲルダは、「リリー」という名をつけて共にパーティにくりだす。そこで男性に言い寄られるリリーを見て、ゲルダは複雑な感情を抱く。夫が女になってしまう、夫が女として言い寄られる… リリーが男と付き合うのをどう観るか。リリーが女になったから男を求めだした、と単純化するのは間違い。これは女になった解放感から、性が自由に解き放たれたのである。そこでわかってくることは…

これは愛に関する映画であること。

リリーは妻とセックスができなくなるが、それもリリーが男を求めるからと単純かするのも間違いである。むしろ夫婦という枠組みが揺さぶられたと読みたい。男と女という普通の組み合わせが揺さぶられたせいだと。ただ現実にはどうなのだろう。私の場合ですが、男性が女性を自認するだけでホルモンバランスが崩れて、性欲が減るようなのです…

どうやら女と男の性とは、性機能上の違い、社会的な役割、そしてホルモンという幾つかのバランス上に成立するもので、それが壊れていくとどうなるのかという問いかけがある。この映画は女と男の間にトランスジェンダーという現象をおいて、それが愛することの「問題の解決」にもなり、「問題を複雑化」させることを描いている。

愛には異性愛もあれば同性愛もある。家族愛もあれば友情もある。愛は人間の根幹をなすものである。そこに障害があるとーたとえば幼少期に愛されなかった体験や寂寥感のなかで青春を過ごした体験ー愛をめぐって人格や生き方に問題が生じる。親や兄弟姉妹とうまくいかない、恋や結婚がうまくいかない。失恋や不仲、離婚を繰り返してしまうなど。愛することと愛されることが原因なので、つねに問題は愛に生じるわけ。

アイナーのとってその問題解決(ないし問題深化)はリリーになることだった。そこで絵を巡って興味深いエピソードが二つ描かれる。

アイナーの絵画は自分の孤独感の埋め合わせでした。かれの孤独をもっとも象徴するのが、ふるさとの痩せた木々を描いた絵。どんな孤独があったかまでは触れられていない。ただそこにリアルな思いが込められているから、観る人々を感動させた。ところが画家がリリーになることで、孤独から自己解放し幸せに向かっていった。孤独感は後退して、本当の自分を出せるようになった。絵を描くこと=代償的行為=が必要なくなった。だからアイナーは絵を描くことをやめて、普通の女性のように百貨店勤務ができるようになった。

それが幸せなのか?才能が消えていってもいいのか?重い問いかけも生まれた。

もうひとつのエピソードは、売れなかったゲルダの絵が売れるようになったこと。挿絵やつまらない肖像画はさっぱり売れなかったが、リリーをモデルにするとその絵は争うように買われていった。たしかに良い絵であり、リリーの表情に惹きつけられる。史実ではリリーの死後、それらは売れなくなってゲルダは困窮したと言われるけれど、おそらく今、欲しいひとはたくさんいる。私もほしいです。

ではなぜ売れたのか?アイナーであり、リリーである人間の苦悩や解放感、喜びが絵に込められていたから。リアルな人間の魂がそこに描きこまれていたからです。トランスジェンダーとはQueer=奇妙=な存在ではなく、まっとうに生きようとする格闘。それが塗り込められていた。

愛をめぐる重い問いかけのあと、映画の物語は世界初の性転向手術へむかう。転換をめぐってリリーとゲルダの愛情の変化にフォーカスしていく。神はゲルダの愛を試した。女になる夫を愛せるのか?愛とはなんなのか?と。神はアイナーの愛を試した。どんなことがあっても女になる自分を愛するか?と。

トランスジェンダーは愛のかたちを変えていく。

女と男というジェンダーの違いは、愛することにおいて絶対基盤でない。もちろん生殖という前提では、男と女がいなければならない。だがセックスは異性間でも同性間でもできる。愛することは、同じジェンダーで晴れるときもあれば、異なるジェンダーで曇ることもある。さらに愛とは必ずしも愛欲とは限らない。相手の人生を肯定することでもある。
ゲルダがアイナーの女性化を認めない間は、愛は途切れた。だがアイナーの新しい性を受け入れることで、受容という真の愛に目覚めていく。アイナーが手術によって安らぎを得ていく。そこには自分を受容できた喜びがある。

これが解決策としてのトランスジェンダーである。

愛はひとを支配することでもある。占有意識がある間は、愛のかたちはつねにねじまがり、つねに戦いが繰り広げられる。なぜかといえば、ちゃんと自分を愛していないから。自己否定の上での愛だから。ひとを愛せるひとは自分を愛せる。ひとを愛せないのは自分を愛せないから、自分に疑いをもっているから。だから相手も疑い、支配しようとする。

別の性になることは、このような堂々巡りから抜け出すきっかけになる。アイナーは自分を孤独感から解放し、妻も解放することができた。映画でもほんのりと描かれているが、ゲルダはアイナーと別れて別の相手を見つける。リリーはのちに男性からプロポーズされた。ゲルダもリリーも、男は女を愛するべし、女は男を愛するべし、夫婦はかくあるべしという、性愛の呪縛から解き放たれた。支配しあう関係から抜け出したのだ。

以上、映画『リリーのすべて』から愛とジェンダーをめぐる思いを書きました。最後に、この映画を観るきっかけを書いておこう。2020年の夏、私は知人にトランスジェンダーになると告白したら、この映画を教えてくれた。映画を観たあと、原作『Man into Woman』まで読みあさった。本ではまた違う側面が現れる。「リリーの幸せとはどんなもの?」という問いかけがあった。そこから「なぜ自分は女になりたいの?」と思いをはせた。リリーからスピンオフしたテーマが次々と生まれてきた。今日はここまで。

(書きたいテーマ)
リリーは靴下、私はジーンズだった。

映画『リリーのすべて』のアイナー(原作ではアンドレアス)はなぜリリーになろうとしたか?
トランスジェンダーになることで才能(やりたいこと)は変わるのか?
トランスジェンダーになることは平和平穏平静を求めること
孤独の問題
幸せってなに?
自己肯定感について

コメント

  1. MIMO より:

    もーう!素敵すぎ!郷さんがはじけてる!エネルギーしか感じない!
    大好きな郷さんの文章がさらにパワーアップしてる!
    すっごい元気と学びをもらいました!ありがとうございます!
    こちらのブログも、楽しみにしています!

  2. lily より:

    MIMOさま
    ありがとうございます。とても励ましになります。ときにめげそーになることもありますけど、私はキレイになりたい(笑)とこわーい怨念をこめて(^^)日々心と体と顔を磨いています。
    どうぞお見捨てにならず、見物されていてください。

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