ジェンダー論フリーな私

トランス男性(女性が男性になるトランスジェンダー=ftm)が書いた『トランスジェンダー男性学』という本を読み出したのですが、すごく丁寧な論考で上手な文で書かれているのですが、どうしても「ジェンダー論」や「フェミニズム」「男性学」といった論が頭に入ってこなくて、なかなか読み進めません。

抑圧された女性という立場から、トランスジェンダーとなって抑圧する男性の立場になれば、性差のある社会批判の鋭い視点が持てると思います。だから本書や他のジェンダー論の本が存在しうるのですが、私はトランスジェンダーとして抑圧される側の女性の立場になろうとも、男をやっつけろー!男性社会を憎めー!益荒男(ますらお)的な社会や歴史を改めろー!という活動はしないと思います。どうもそういう活動には興味が薄い。

どうして興味が薄いのだろう?と考えてみると、振り返れば私も男性社会のなかでずっともがいてきました。

男性が牛耳る経済社会で何かを成し遂げようと、社会人になってそれなりにがんばって転社や転職もしました。やれたことも、やれなかったこともありましたが、振り返って何がつらかったかといえば、どこにもフィットしない自分という存在でした。学校でも、会社でも、家庭でも、どこかフィットしきれない。どこにも見えないバリアがある。

ところが人生も最終コーナーに差し掛かって、自分の本質に気づきました。自分は「社会で働く仮面」をかむり続けるのがつらかった、その仮面を脱いだとき、私のなかから出てきたのが女という性でした。

ただその性は、男社会で「ガラスの天井を破る」「不平等を憂える」という戦う女性ではなくて、ただ「綺麗になりたい」という自分遊びが好きな女性でした。ヤワくてすみませんね。

でも世間的には変態と言われる感情が出せるようになって、すっきりしました。綺麗になりたいという思いが、誰かのためではなく、本能的なものであることも知りました。そういう自分を発見した瞬間は衝撃でしたが、それは社会でつらがっていた「仮面男子」からの脱皮の一歩でした。

女は平和な生きものである」と言って男から女へトランスしたのは、台湾の天才オードリー•タンでしたが、才能あるかれの中では、台湾のおかれた政治的情勢へ関与しようという使命感もあったと推測します。ジェンダー論を語り、トランスジェンダーのおかれた不都合を変えようと政治や社会活動に走るトランスジェンダーの方々の使命感もまた、正義や才能があるゆえにできることです。

私は社会と戦うよりも、本当の自分と戦うことが興味があります。本当の自分を出せずに、鬱屈している人の仮面をはいでやることには興味があります。

この多様なジェンダー社会の片隅で、偽のブラカップを着たり、ナベシャツ(おっぱいを押しつぶすシャツ)を着たり、エピテーゼ(擬似ペニスや擬似おっぱい)をつけながら、自分の本能に正直に生きようとする人の本心を描くことは、尊いと思っています。

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