この本は出だしがいい。
殺してやるー。
絶対にぶっ殺してやる。
許さない。
世界トップモデル冨永愛の自伝は怒りで戦闘開始。学校で、でっかい女は毎日からかわれ、いじめられた。恨みのエネルギーと不屈の精神がコヨリのようによじれ合いながらモデルへの道を歩む。『Ai 愛なんて大っ嫌い』冨永愛著を読んだ。
彼女の家はひどく貧乏で、シングルママは子育ては何もしない。それぞれ父が違う姉妹と3人家族。背が高さがコンプレックスでショートポープを吸ったら身長が止まるだろうとふかし、気に食わないと机をひっくり返して教室を出る。不幸な家、どうしようもない不良。
壮絶な本なのだが、私は読みながら笑いだした。人間冨永愛を知って嬉しくなったからだ。私は彼女につかまれてしまった。
やってやろうじゃないの。
ちくしょー、ぶっ殺してやる。(P83)
閉鎖的な業界で日本人/アジア人への圧倒的な差別に耐えられたのは、日本の学校での疎外で生きてきたこと、彼らへの復讐を遂げることからという皮肉。負の感情を力に変え、メラメラと挑戦心を燃やした。西洋人と異なる日本人顔でやってやろうじゃないの。のしあがりながら、冨永愛が浮薄なファッションの世界を軽蔑していたのもアウトローらしくていい。
しかし、なぜ彼女はファッションモデルを続けたのか?
じゃあ、なんで、この仕事続けてんだよ?と言われれば、わたしには、それしかなかったからだ。子どものころのわたしを苦しめつづけた背の高さを生かせるたったひとつの道だったからだ。(P124)
その人にとって真の仕事とは「それしかできない」こと。人が仕事をやめるのは、結局別の仕事ができるからだ。さらに自分の欠点は実は他の場で生かせることがある。それをつかむことだと冨永愛は教える。
私も「でっかい女」になろう。冨永愛は179cm、私は177cm。冨永愛がいう「丹田の奥で立つ」姿勢で、でっかい女化した男になってやろうと思えた。とはいえ可能な限り女ぽくなる努力は惜しみませんけど。
冨永は10年間トップを走り、業界にどっぷり浸かった。ところが冨永愛のすごさは、自分を冷静に見れるところだ。
17歳のときの、あのギラギラした目、怒りの目を忘れつつあった。(P156)
渋谷の交差点でへそを出し、ルーズソックスで立って、挑みかかってくる写真がある。わたしはこの写真の冨永愛を見て惚れた。(彼女のインスタにある)
だがその怒りの目の奥には、母の目があった。
中学の頃、わたしはあたたかい家庭をつくるんだと固く誓ったはずなのに、わたしは息子に、わたし以上につらい思いをさせてしまった。(P177)
不幸な家庭に育った子は不幸な家庭をつくる。愛することがわからないからだ。冨永愛は仕事に逃げた。だがいったん仕事をやめて、母子奮闘の家庭の日々に入った。なぜ転換できたのか?
実は、彼女の幼少期の家庭はそれほど不幸ではなかったからだろう。
父母の結婚は失敗だったが、父も母も良い人だった。自分が父や母を許せず、恨みを抱いていたから不幸だったのだ。不幸とは自分のふるまい次第なのだ。どんな境遇でも幸せは必ずある。それがわかるかわからないかだけ。
愛で終わるこの本は感情が綴られている、だから強い。ヤワな文は書けないと思った。気合いを注入してくれた冨永愛に感謝。

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