答えは、完成への道を進むべき存在であり続けること

30数年前、ある医学生が1冊の本をきっかけに、死を考えだした。その本は『死を考える 死の準備教育第三巻』(アルフォンス•デーケン編集)である。1987年発刊の本書を入手して読み出した。死がテーマだが辛気くさい内容ではない。死を考えるというよりも、生を考え、我が身に起こった変化(トランスジェンダー)を考えさせられた。

第一章 死の意義 人間にとって死を準備するとは』を引用しつつ、どんなことを思ったのかを書いておきたい。著者は稲垣良典氏(当時九州大学文学部教授)である。

こんな硬派な本がたくさん売れる時代があった。(奥付に第一版8刷とありました)

結論的に言うと、自己を知ろうとする試みは、その全体において、真の自己を実現しようとする営みを離れてはありえない。そして真の自己の実現とは、今、我々が「自己」とみなしているものを絶えず乗り越えることー自己超越ーによってのみ、成し遂げられる。言いかえると、真の自己認識は、はじめから何かできあがったものとしての自己を前提した上で、それを細かく観察し、分析するというやり方によってではなく、反対に自己を超越し、変革していくことを通じて成就されるのである。(同書P3)

【自己を超越する】
長い間、自分がどうすべきか、どうしてXXXができないのか、どうしてXXXなのか?と責め、また自己分析をしていても自分はつかめなかった。ところが私の中に女がいることに気づいたとき、ひとりでもがいていた自分を「置き去りにする」ことができた。稲垣氏が書いているように、それまで自己とみなしていた<男>の奥にいた<女>へ超越した。自分自身と思っていた存在は本当の自分ではなく、その奥だか隅っこだかにいた、女っぽい自分が自分だと分かっとき、仮面のようなものが剥がれた。

したがって、我々が改めて死について考えようとする時の出発点は、我々は死について知っていると同時に知らない、という奇妙な状況である。その状況は、我々が人間について、そして自己についてある意味で良く知っていると同時に、別の意味では深く無知であるのと似通っている。(同書P5)

【死について考えることは自分を知ろうとすること】
私はもがいていた自分のことをまるで知らなかった。ある時、女性の姿になることでとてつもない解放感を得た。男でなくてもいいのが新鮮であった。男姿の自分が「死にたい死にたい」と思っていたのに、奥にいた自分はひっそりと生きていた。出てきた自分は「生きたい生きたい」と言い出した。私のトランスジェンダーは「自分の死に方探し」なのかもしれない。

我々はふつう、生物学的死が起こるから、それに伴って人間の死も起こるのだと考えているが、本当の順序は逆なのかもしれない。人間の生と死を支配している、より高次な法則や必然性があって、生物学的死は、それの外面的な現れであるのかもしれないのである。(同書P7)

【人にはいろんな死に方がある】
病いで死ぬ、事故で死ぬ、衰えて死ぬ。「使命を終えて死ぬ」人もいるだろう。使命とは社会的な事業や創造を残すだけでなく、子に何かを伝えるのも使命である。自分の遺伝子に書かれたものを実行し、伝えたとき、死ぬのだ。私の場合、もしもそれが女性化だとすれば、まっとうな死に向かっていることになる。

できる限り死を避けたいという傾向性は、我々が死の反対である生命を善として受け止め、それに引き寄せられているからであるが、我々は生命よりももっと大きな善があることを心の底で知っているのではないか。(同書P11)

【大きな善とは何か】
筆者の稲垣氏は「勇気」を挙げる。祖国のために死ぬ勇気、殉教する者の勇気。あるいは「」という善ー正義、節制、賢明などである。私の中には濃淡はあれど、どれも強くは存在はしていないな…。普遍的な善のために死ねる人もいるが、私はどうやらそうではないらしい。私にとっての善とは何か?

では人間は未完成であり、完成への道を進むべき存在であるとして、人間が自分自身を完成するとはどういうことか。その一つは自己を絶えず否定し、超越していく。それが真の自己への実現へと進み、自己完成へとつながる(P18 一部改変)

【答えは…】
完成への道を進むべき存在であり続けること」である。私の完成とは、ありたい自分=綺麗な女になってシーンに溶け込むこと。それは一般的には正義でもなければ、賢明でもない。男が女になるのを世間一般では勇気と言わず「リスク」という。野蛮な変態(笑)。

ただ外面的なものだけではない。内面の成長もある。自分を許せるとか、人を許せるとか、自分をチームに溶け込ませるとか、いつもしかめっ面をしないとか、素直に生きるとか。それらは全て完成への道を歩むことである。

しかし自分に素直になることは、どうして世間では変態扱いなのだろうか。

不可抗力ってやつか(笑)。それでもええ。でもそのなかで伝えたいことがある。自分に正直になると生きやすいのだ。普通の人が、多様性の人を気持ち悪ければ認めなくてもいい。でも「受け入れてくれる普通の人」を増やしたい。そうすると社会全体が生きやすくなるので。

最後に、筆者は中世の神学者トマス・アクィナス研究の第一人者で、今年亡くなったそうです。トマス•アクィナスもちょっと勉強してみます。

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